読み物

芥川は言えず、川端は出せず、カフカは書きすぎた。——恋文という厄介な文章

芥川は言えず、川端は出せず、カフカは書きすぎた。——恋文という厄介な文章

文章で後世に名を残した人なら、好きな相手への手紙くらい、さぞ見事に書いたのだろうと思います。 ところが、恋文をのぞいてみると、話はそうきれいではありません。 芥川龍之介は、好きな本人より先に、その叔父で親友の男性へ恋心を書き届けました。川端康成は、返事が来ない不安を何枚も綴りながら、その手紙を投函しませんでした。フランツ・カフカにいたっては、一人の女性へ五年ほどのあいだに、手紙と葉書をほぼ600通送っています。 言えない。出せない。書きすぎる。 文章の名人たちが、恋愛になると、言葉の量と距離感をそろって見失っています。 もちろん、彼らの文章そのものが下手になったわけではありません。むしろ、うますぎるくらいです。問題は、その文章が相手へ届くか、届いたあと相手がどう思うか、いつ返事が来るかを、自分では決められないことでした。 作品なら、作者が終わりを決められます。恋文は、相手が返事をするまで、なかなか終わってくれません。 芥川龍之介は、本人より先に友人へ告白する 芥川龍之介が、のちに妻となる塚本文への気持ちを綴った二通の手紙が残っています。 ただし、宛先は文本人ではありません。文の叔父であり、芥川の親友でもあった男性でした。 芥川はそこで、「僕が文ちゃんを愛していると云ふ事を少しでも文ちゃんに知って貰へたら」と書き、文が自分をどう思っているのか分かれば、と恐る恐る尋ねています。 本人に聞くのがいちばん早いのですが、それができたら、恋はもう少しスムーズに進みます。 『羅生門』や『鼻』を書いた人が、一人の女性の気持ちになると、急に友人経由で様子をうかがっている。言葉がないわけではありません。言葉は十分にあるのに、宛先だけが少し遠いのです。 文と芥川は、その後結婚しました。一方、芥川が文本人へ送った手紙の多くは、文の遺言によって焼かれ、ほとんど残りませんでした。 残っているのは、本人にはまだ言えず、友人へ送った不安の方です。 返事が来ない不安を書いて、その手紙を出さない川端康成 1921年、22歳の川端康成は、当時15歳だった伊藤初代へ長い手紙を書きました。この年齢差を含め、現在の感覚からは慎重に読む必要があります。 手紙の冒頭で川端は、以前送った手紙を見たかと尋ね、返事がないので毎日心配し、夜も眠れない、と訴えています。 ここまでは、返事を待つ人の恋文として分かります。 問題は、その手紙が投函されなかったことです。 返事が来ない不安を書いた手紙を、相手に送らない。通信手段としては、かなり致命的です。 この手紙は川端の鎌倉の旧宅に残り、93年後の2014年に発見されました。同時に、初代から川端へ送られた十一通の手紙も見つかっています。 川端は、相手へ届かなかった言葉をそのまま捨てたわけではありません。初代との関係は、のちに「ちよもの」と呼ばれる複数の作品へ形を変えて残りました。 一人へ出せなかった文章が、多くの読者には届いてしまう。 作家としては成功かもしれませんが、恋文として考えると、ずいぶん遠回りです。 会うより先に手紙が増えていくカフカ 芥川が言えず、川端が出せなかった一方で、フランツ・カフカは出しました。かなり出しました。 カフカは1912年から1917年にかけて、最初の婚約者フェリーツェ・バウアーへ、手紙と葉書をほぼ600通送っています。二人は二度婚約しましたが、直接会った回数は比較的少なく、カフカ博物館は二人の関係を「手紙の中の恋」と紹介しています。 本人に会うより、郵便の方がよく働いた恋愛です。 カフカは、ときには一日に複数の手紙を送ったとされています。返事を待つあいだに、次の不安が発送されていきます。...

芥川は言えず、川端は出せず、カフカは書きすぎた。——恋文という厄介な文章

文章で後世に名を残した人なら、好きな相手への手紙くらい、さぞ見事に書いたのだろうと思います。 ところが、恋文をのぞいてみると、話はそうきれいではありません。 芥川龍之介は、好きな本人より先に、その叔父で親友の男性へ恋心を書き届けました。川端康成は、返事が来ない不安を何枚も綴りながら、その手紙を投函しませんでした。フランツ・カフカにいたっては、一人の女性へ五年ほどのあいだに、手紙と葉書をほぼ600通送っています。 言えない。出せない。書きすぎる。 文章の名人たちが、恋愛になると、言葉の量と距離感をそろって見失っています。 もちろん、彼らの文章そのものが下手になったわけではありません。むしろ、うますぎるくらいです。問題は、その文章が相手へ届くか、届いたあと相手がどう思うか、いつ返事が来るかを、自分では決められないことでした。 作品なら、作者が終わりを決められます。恋文は、相手が返事をするまで、なかなか終わってくれません。 芥川龍之介は、本人より先に友人へ告白する 芥川龍之介が、のちに妻となる塚本文への気持ちを綴った二通の手紙が残っています。 ただし、宛先は文本人ではありません。文の叔父であり、芥川の親友でもあった男性でした。 芥川はそこで、「僕が文ちゃんを愛していると云ふ事を少しでも文ちゃんに知って貰へたら」と書き、文が自分をどう思っているのか分かれば、と恐る恐る尋ねています。 本人に聞くのがいちばん早いのですが、それができたら、恋はもう少しスムーズに進みます。 『羅生門』や『鼻』を書いた人が、一人の女性の気持ちになると、急に友人経由で様子をうかがっている。言葉がないわけではありません。言葉は十分にあるのに、宛先だけが少し遠いのです。 文と芥川は、その後結婚しました。一方、芥川が文本人へ送った手紙の多くは、文の遺言によって焼かれ、ほとんど残りませんでした。 残っているのは、本人にはまだ言えず、友人へ送った不安の方です。 返事が来ない不安を書いて、その手紙を出さない川端康成 1921年、22歳の川端康成は、当時15歳だった伊藤初代へ長い手紙を書きました。この年齢差を含め、現在の感覚からは慎重に読む必要があります。 手紙の冒頭で川端は、以前送った手紙を見たかと尋ね、返事がないので毎日心配し、夜も眠れない、と訴えています。 ここまでは、返事を待つ人の恋文として分かります。 問題は、その手紙が投函されなかったことです。 返事が来ない不安を書いた手紙を、相手に送らない。通信手段としては、かなり致命的です。 この手紙は川端の鎌倉の旧宅に残り、93年後の2014年に発見されました。同時に、初代から川端へ送られた十一通の手紙も見つかっています。 川端は、相手へ届かなかった言葉をそのまま捨てたわけではありません。初代との関係は、のちに「ちよもの」と呼ばれる複数の作品へ形を変えて残りました。 一人へ出せなかった文章が、多くの読者には届いてしまう。 作家としては成功かもしれませんが、恋文として考えると、ずいぶん遠回りです。 会うより先に手紙が増えていくカフカ 芥川が言えず、川端が出せなかった一方で、フランツ・カフカは出しました。かなり出しました。 カフカは1912年から1917年にかけて、最初の婚約者フェリーツェ・バウアーへ、手紙と葉書をほぼ600通送っています。二人は二度婚約しましたが、直接会った回数は比較的少なく、カフカ博物館は二人の関係を「手紙の中の恋」と紹介しています。 本人に会うより、郵便の方がよく働いた恋愛です。 カフカは、ときには一日に複数の手紙を送ったとされています。返事を待つあいだに、次の不安が発送されていきます。...

太宰治、宿代の代わりに友人を置いて帰る。 ——熱海の宿代と「走れメロス」をめぐる友情

太宰治、宿代の代わりに友人を置いて帰る。 ——熱海の宿代と「走れメロス」をめぐる友情

置いていかれたのに、どうにも嫌いになれない。太宰治と檀一雄、熱海の夜 友人を宿代の代わりに旅館へ残し、自分だけ東京へ帰る。 まず、発想の段階で誰かに止めてほしいところです。ところが太宰は、止まりませんでした。 こうして一文にすると、いかにも太宰治らしい、困った文豪の逸話としてよくできています。ただ、この話を笑って済ませるには、置いていかれた側の時間が少し長すぎます。 この出来事を書き残したのは、旅館に残された本人の檀一雄でした。1936年の暮れ、太宰は原稿を書くため、熱海の宿に滞在していました。ところが、原稿より先に金が尽きます。 そこで檀は、太宰を連れ帰り、宿代を清算するための金を持って東京からやって来たといいます。本来なら、その金で勘定を済ませ、二人で静かに帰ればよかったはずです。 ところが二人は、その金まで飲み食いに使ってしまいました。 救出に来た友人が、そのまま宴会へ加わっています。これでは救出ではなく、増援です。 太宰だけを悪者にしてしまうと、檀も少し居心地が悪いでしょう。彼は置いていかれた人であると同時に、途中までは太宰と一緒に転んだ人でもありました。 仲のよい友人というものは、ときどき問題を解決するどころか、問題を二人分に育てます。太宰と檀の友情は、そういう方向に少し景気がよすぎたようです。 太宰が帰るために、檀は帰れなくなりました 飲み食いをすれば、当然ながら宿代は減りません。むしろ、きちんと増えます。勘定だけは、二人の事情をまったく察してくれません。 太宰は東京へ戻って金を借りてくると言い、檀を宿へ残しました。 縄で縛られたわけではありませんから、本当の人質ではありません。それでも、未払いの勘定と一緒に友人を残して一人だけ帰れば、置いていかれた側はそう簡単には動けません。宿の側から見れば、太宰よりは逃げなさそうな人間が一人残ったことになります。 担保としてはかなり人間的で、やり方としてはだいぶ雑です。 太宰が東京へ帰る自由は、檀が熱海から帰れないことで成り立っていました。 堕落というと、酒を飲んだ人、金を使った人、約束を破った人ばかりに目が向きます。けれど、一人が好きに振る舞えた夜には、たいてい別の誰かの待ち時間があります。太宰がどこかへ逃げているあいだ、檀は旅館の部屋で、宿代と一緒に残されていました。 檀も、最初は太宰が戻ってくると思っていたのでしょう。 しかし、太宰はなかなか帰ってきませんでした。 宿代も、もちろん帰ってきません。 金策へ行った男は、将棋を指していました しびれを切らした檀が東京まで太宰を捜しに行くと、太宰は井伏鱒二の家にいました。 金策に駆け回り、疲れ果てているところを見つけたのなら、檀の怒りも少しは収まったかもしれません。 太宰は、将棋を指していたそうです。 金策に戻ったはずの人が、将棋盤の前にいます。檀からすれば、探していたのは友人であって、対局相手ではありません。事情が事情なので、せめて将棋盤からは離れていてほしいところです。 怒る檀に、太宰はこう言ったと伝えられています。 「待つ身が辛いかね、待たせる身が辛いかね」 まず戻ってから言ってほしい言葉です。 ただ、この言葉が困るのは、単なる言い逃れとして捨てるには、少しだけ本当だからです。 一度返事を遅らせると、翌日には返事だけでなく、遅れた理由まで説明しなければならなくなります。さらに時間がたてば、謝ることそのものが重くなり、相手の顔を思い浮かべるほど、ますます戻りづらくなる。待たせている側の苦しさは、たいてい自分で作ったものですが、だからといって苦しくないわけではありません。...

太宰治、宿代の代わりに友人を置いて帰る。 ——熱海の宿代と「走れメロス」をめぐる友情

置いていかれたのに、どうにも嫌いになれない。太宰治と檀一雄、熱海の夜 友人を宿代の代わりに旅館へ残し、自分だけ東京へ帰る。 まず、発想の段階で誰かに止めてほしいところです。ところが太宰は、止まりませんでした。 こうして一文にすると、いかにも太宰治らしい、困った文豪の逸話としてよくできています。ただ、この話を笑って済ませるには、置いていかれた側の時間が少し長すぎます。 この出来事を書き残したのは、旅館に残された本人の檀一雄でした。1936年の暮れ、太宰は原稿を書くため、熱海の宿に滞在していました。ところが、原稿より先に金が尽きます。 そこで檀は、太宰を連れ帰り、宿代を清算するための金を持って東京からやって来たといいます。本来なら、その金で勘定を済ませ、二人で静かに帰ればよかったはずです。 ところが二人は、その金まで飲み食いに使ってしまいました。 救出に来た友人が、そのまま宴会へ加わっています。これでは救出ではなく、増援です。 太宰だけを悪者にしてしまうと、檀も少し居心地が悪いでしょう。彼は置いていかれた人であると同時に、途中までは太宰と一緒に転んだ人でもありました。 仲のよい友人というものは、ときどき問題を解決するどころか、問題を二人分に育てます。太宰と檀の友情は、そういう方向に少し景気がよすぎたようです。 太宰が帰るために、檀は帰れなくなりました 飲み食いをすれば、当然ながら宿代は減りません。むしろ、きちんと増えます。勘定だけは、二人の事情をまったく察してくれません。 太宰は東京へ戻って金を借りてくると言い、檀を宿へ残しました。 縄で縛られたわけではありませんから、本当の人質ではありません。それでも、未払いの勘定と一緒に友人を残して一人だけ帰れば、置いていかれた側はそう簡単には動けません。宿の側から見れば、太宰よりは逃げなさそうな人間が一人残ったことになります。 担保としてはかなり人間的で、やり方としてはだいぶ雑です。 太宰が東京へ帰る自由は、檀が熱海から帰れないことで成り立っていました。 堕落というと、酒を飲んだ人、金を使った人、約束を破った人ばかりに目が向きます。けれど、一人が好きに振る舞えた夜には、たいてい別の誰かの待ち時間があります。太宰がどこかへ逃げているあいだ、檀は旅館の部屋で、宿代と一緒に残されていました。 檀も、最初は太宰が戻ってくると思っていたのでしょう。 しかし、太宰はなかなか帰ってきませんでした。 宿代も、もちろん帰ってきません。 金策へ行った男は、将棋を指していました しびれを切らした檀が東京まで太宰を捜しに行くと、太宰は井伏鱒二の家にいました。 金策に駆け回り、疲れ果てているところを見つけたのなら、檀の怒りも少しは収まったかもしれません。 太宰は、将棋を指していたそうです。 金策に戻ったはずの人が、将棋盤の前にいます。檀からすれば、探していたのは友人であって、対局相手ではありません。事情が事情なので、せめて将棋盤からは離れていてほしいところです。 怒る檀に、太宰はこう言ったと伝えられています。 「待つ身が辛いかね、待たせる身が辛いかね」 まず戻ってから言ってほしい言葉です。 ただ、この言葉が困るのは、単なる言い逃れとして捨てるには、少しだけ本当だからです。 一度返事を遅らせると、翌日には返事だけでなく、遅れた理由まで説明しなければならなくなります。さらに時間がたてば、謝ることそのものが重くなり、相手の顔を思い浮かべるほど、ますます戻りづらくなる。待たせている側の苦しさは、たいてい自分で作ったものですが、だからといって苦しくないわけではありません。...

お香のはじまりは、淡路島に流れ着いた一本の木だった - YOAKARI 読み物サムネイル

お香のはじまりは、淡路島に流れ着いた一本の木だった

日本最古級のお香の記録は、淡路島に流れ着いた一本の香木から始まりました。日本書紀に残る漂着の記述から、江井の線香産業、泉州堺から伝わった技術、そして今の淡路島と香りの関係までを整理します。

お香のはじまりは、淡路島に流れ着いた一本の木だった

日本最古級のお香の記録は、淡路島に流れ着いた一本の香木から始まりました。日本書紀に残る漂着の記述から、江井の線香産業、泉州堺から伝わった技術、そして今の淡路島と香りの関係までを整理します。

文香とは。手紙に香りを忍ばせた人たちの系譜 - YOAKARI 読み物サムネイル

文香とは。手紙に香りを忍ばせた人たちの系譜

文香とは、手紙や持ち物に香りを添える小さな匂い袋のこと。意味、使い方、匂い袋との関係、和紙香へ続く紙と香りの系譜をYOAKARIの視点で整理します。

文香とは。手紙に香りを忍ばせた人たちの系譜

文香とは、手紙や持ち物に香りを添える小さな匂い袋のこと。意味、使い方、匂い袋との関係、和紙香へ続く紙と香りの系譜をYOAKARIの視点で整理します。

和紙のお香というかたち。紙が香りを抱く理由

和紙のお香というかたち。紙が香りを抱く理由

和紙のお香とは、和紙でできたお香のこと。ちぎって火をつけて焚くことも、火を使わず財布や名刺入れに忍ばせて香らせることもできます。ふつうのお香との違い、文香との繋がり、使い方を作り手が整理します。

和紙のお香というかたち。紙が香りを抱く理由

和紙のお香とは、和紙でできたお香のこと。ちぎって火をつけて焚くことも、火を使わず財布や名刺入れに忍ばせて香らせることもできます。ふつうのお香との違い、文香との繋がり、使い方を作り手が整理します。